2021-03-04 第204回国会 参議院 予算委員会 第4号
言うまでもなく、渋沢は近代日本をつくる上で大きな役割を果たした人物の一人ですが、その渋沢と同時代に我が国の近代国家の基礎をつくったのが一円切手の肖像でも知られる前島密という人物でした。渋沢と前島は、明治の初頭、明治政府の新たな制度を立案する改正掛という組織で一緒に仕事をし、日本の近代国家へと生まれ変わる諸制度を形作りました。
言うまでもなく、渋沢は近代日本をつくる上で大きな役割を果たした人物の一人ですが、その渋沢と同時代に我が国の近代国家の基礎をつくったのが一円切手の肖像でも知られる前島密という人物でした。渋沢と前島は、明治の初頭、明治政府の新たな制度を立案する改正掛という組織で一緒に仕事をし、日本の近代国家へと生まれ変わる諸制度を形作りました。
明治維新以来の歴史的変革期にありまして、近代日本の国家としての基盤や骨格そのものの原点を築いたという大久保が、まさにその机が、旧内務省を経て、自治省、そして総務省に伝わっている、そのことを思うときに、何か、内務省以来の伝統のあるこの総務省の歴史、重みを感じる次第でございます。 さて、昨年、世界中に広がりました新型コロナウイルスの中で、今まさに世界が大きく変わろうとしております。
また、近代日本を代表する財政家として知られる高橋是清氏は通算六回九年弱と、いずれも教科書に載るくらいの方々でありますけれども、現在第三位ということでありまして、先ほど申し上げましたが、官庁の中の官庁として霞が関ににらみを利かせる財務大臣として、今巷間取り沙汰されております真水十兆円の補正予算の編成を含め国家財政をつかさどる立場から、凜と厳しく官邸、霞が関を律していただきたいということを申し上げまして
こんな法律が近代日本になってもずっと残っていたということ自体が物すごくおかしいというか、あるいは差別の象徴としてアイヌの方々がお怒りになるのは、僕は当然だろうというふうに思います。 文化振興法のときにやっと旧土人保護法という法律を廃止するわけですけれども、どうもそこの着手が近代日本として非常に私はおくれてしまったのではないかというふうに思うんですけれども、そのあたり、いかがですか。
明治以降の日本を近代と、こう定義するのであれば、まさに近代日本というのは、工業化社会、特に欧米へのキャッチアップということで過ごしてきた、進んできた百五十年だったというふうに思います。 かつて、我々人類にとって地球は無限であったというふうに思います、資源という面でも、また様々な環境という面でもですね。
○堀井(学)大臣政務官 外務省では、明治百五十年施策として、例えば、近代日本、諸外国との外交関係に関する国書、親書を含む外交史料館の所蔵史料をデジタルアーカイブや展示会で紹介する活動を予定いたしております。
近代日本の精神医学、医療の先駆けとなった呉秀三氏は、我が国何十万の精神病者は実にこの病を受けたる不幸のほかに、この国に生まれたるの不幸を重ぬるものと言うべしと表しました。 座敷牢に始まり、一九五〇年の精神衛生法制定に至るまで、日本における精神障害者対策は、長く隔離、収容する歴史であったと言っても過言ではありません。
それだけやはりこの明治というものをきちんと検証していくということは、近代日本にとって大事なことだろうというふうに思っています。事実、一九六八年、これは明治百年のときには、当時の佐藤栄作内閣の下で明治百年というものの検証事業がいろんな形で行われたわけであります。 ちょうどまた五十年、半世紀たちまして、来年が明治百五十年という再び大きな節目を迎えるわけであります。
だけど、この部落問題というのは近代日本百五十年の問題としてずっと続いている。この問題をどう解決するかという、本当に歴史的な課題だというふうに思うんです。 まず、提案者にお聞きをしたいんですが、部落問題の解消というのは一体どういうことなんでしょうか。
しかしながら、近代日本の経済成長の歴史は、大都市への人口集中の歴史でもあり、都市への人や情報の集積は、歴史的・経済的に必然性を有しているといえる。 このような東京への人口流入の背景には、旺盛な経済活動、多くの雇用の創出、人や情報などの充実した都市基盤が、地方の企業や若者を誘引したことなどがあり、これは、個々人の自発的な「選択」の結果による、都市への「集中」ともいうべきものである。
そうであれば、やはりきちっと近現代史という科目をつくって、そこに焦点を当てて、近現代史というのは日本が国際社会に扉を開いて国際政治の中で近代日本をつくってきた過程ですから、世界史と日本史が融合されているんですよね。
本学の原点は、かの緒方洪庵が一八三八年に大阪の船場に設立した適塾であり、適塾は、福沢諭吉など多くの俊英を輩出し、近代日本の形成に大きく貢献いたしました。
これに触れられ、近代日本の黎明期に生きた人々の政治参加への強い意欲や自国の未来に懸けた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたとお答えになっております。 私も、憲法について盛んに議論が行われていることは大変望ましいと思います。しかし、現在、憲法をめぐって、かつて五日市で行われたような熱い議論が国民の間で起こっていると言えるのでしょうか。
○笠井分科員 まさに大学が決めることだと思うんですが、本館というのは、大正十三年に完成した大学のシンボル的な建物で、世界的にも有名な建築家アントニン・レイモンド氏の設計で、日本建築学会の近代日本の名建築や、品川区のしながわ百景にも指定をされている。道路がその前を通れば、景観を含めて貴重な建築物が台なしになる。
近代日本の発達ほど世界を驚かせたものはない。この驚異的な発展には他の国と異なる何物かがなくてはならない。果たせるかな、この国の三千年の歴史がそれであった。この長い歴史を通じて、一系の天皇をいただいているということが、今日の日本をあらせしめたのである。私は、このようなたっとい国が世界に一カ所くらいなくてはならないと考えていた。
そして、これらの藩校、寺子屋は、明治維新後の我が国の学校教育発展の重要な基盤となる、また、近代日本の建設に大きな役割の礎を果たしたというふうに認識しているところでございます。
また、近代日本においては非常に不得手なんですけれども、歴史の総括が非常に私は日本は下手だなというふうに思っております。私は会津でありますけれども、百四十三年前の戊辰戦争もしっかり総括はされておりませんし、岸筆頭おられますけれども、長州と会津はまだ平和友好条約も結んでおりませんし。まあ、それはおいておいて。
近代日本では、戸籍が明治の初頭にできたときには、戸籍と住んでいるところとほとんどの人が一緒だったと思いますけれども、どんどんどんどん都市に人口が流入していって、先祖以来の出身地と現在の居住地が大きく異なってきたと思います。だから、自分の身の回りでも多くの人は本籍を移換しちゃって、自分の住居地にしているという人が多いと思うわけでございます。
我が国は、教育に関しまして非常に特別な配慮と強い重大関心事を持ち続けてきたということ、これは、近代日本の建設時に、岩倉使節団がまだ帰朝する前に、明治五年、西郷首班政権のもとで学制が発布されまして、それから、憲法あるいは帝国議会が開設されるのに先立ちまして、明治十年、まさに西南戦争の時期に東京大学が設立され、そして帝国大学令が発布され、また、明治二十三年、国会開設と同時に教育勅語が発布された。
そういうアメリカという国の文化も沖縄にあるわけでありまして、近代日本の国民国家の文化、そして江戸時代からも含めた文化、また琉球の文化、こうしたいろいろな文化を融合、ミックスしている。そこに今これがある。これはとても大きな意味を持っています。